「わ、きれい」
色んな傘が信号機の横で揺れています。
私は園長先生の迎えの車の中から、その様子を眺めていました。
雨の登園は大変だろうなと思いながら、いいなあ、贅沢だなあ、こういうの大事だよねと、思いました。
近頃、人形劇を観に来てくださる小さな人たちの中に、お家と公の場との区別がついていないんじゃないかな、と感じるお子さんがいます。
すぐに寝転んだり、大声で話したり。
そんなとき私はどうやってこの会場にいらしたのか、と気になります。
車かな、電車かな、自転車かな、と。
そして、多分車に<乗っけられて>おいでになっているんじゃないかと推測します。
大人の私たちも、飛行機移動が続くと、あれ、今どこだっけと、今いるところがわからなくなったりします。
ひと眠りしている間に札幌や博多についてしまうのですもの。
「思えば遠くに来たもんだ」
と、からだが納得できていないのです。
ましてや小さな人。
移動が早すぎて、からだが公のところに来たんだ、と納得できてないのでは、と思うのです。
「靴はいて、ジャリジャリ道を歩いていくと、急に車ブンブン道にでて。
へんな臭いと思って歩いていると、足元にふあっと暖かい風、ラーメンやさんの室外機だって。
角を曲がるとまた鼻につん。
焦げた臭いだなと僕は思うのに、ママは急にゆっくり歩きになって、良い香りって。コーヒー屋さんだって。
そこまでいったらもう少しなんだ。 草ぼうぼうのお庭が見えて。
もういいよ、とママが言うから、ママの手を離してぼく走ってきたんだ」
こんな風に手間隙かけて移動してきたら。
頭も体も心も一つになって、
「思えば遠くに来たもんだ」
と、
ここはお家ではない別なところなんだと、納得できるのではないのかしら。
そして、そんな体験は、大きくなったらきっと、贅沢な時間だったなあと、懐かしく喜びをもって思い出せるのではないかしら。
かえるくんがいっぱい。 札幌子ども劇場連絡会の小さな人たちからのプレゼント。 |