ある時、背中の方から声がしました。
どきっ。
「今日はどうだった?」
保育園から帰った息子に、私はたいてい、そう声をかけました。
洗濯物を取り込みながら。あるいはスーパーで買ってきたものを冷蔵庫に放り込みながら。あるいは郵便物を仕分けしながら。
あるいは、あるいは……。
そうなんです。
働く母は、帰宅したとたん家事が山積み。
けれど、保育園から一緒に帰宅した息子とも交わりたい! これも本心なのです。
で、何かしながらの質問になるわけです。
「今日はどうだった?」
息子は懸命に、何か話していたのでしょうね、私の背中に。
なのに母は、これが終わると次、これが終わると次、と、いっこうに自分を見てくれない。
多分、「へええ」とか、「そうなんだぁ」という母の相づちも、どこか虚ろだったんでしょうね。
そしてついに、一言
「母さんは質問はするけど答えのいらない人なんだね」
と!
「あああ、ごめんねっ」
その息子は三ヶ月前に、自身がパパになりましたが、私としては未だに忘れられない、息子からの、ぐさり心に刺さる一言でした。
孫も生まれて本物のおばあちゃんになった今、心から思うのです。
何であのとき、手を休め、振り向き、向かい合って、 「今日はどうだった?」 と聴いてやれなかったのか、と。
何をそんなに急いでいたのかしら、と。
そして思うのです。
多分、息子は、薄情な母なのに、私との交わりを諦めなかった。
「ボクの話を聴いて」
そして、多分、息子は、私が何をしていたのかを、私の背中越しに見ていたから、それが自分の暮らしに関わることだから、それが解るから許してくれていたのではないか。薄情さを受け入れてくれていたのではないかしら、と。
母は洗濯物を、買い物したものを、郵便物を片づけ、ご飯作りを、していた。
彼にも解る「必要なこと」をしていた。
けれど、これが、スマホだったらどうなんだろう。
「ボクの話を聴いて」
「ボクを見て」
話しかけても、呼び掛けても、母の目が、母の関心が、四角くて小さい「何か」に向けられていて、側にいるのに、なんだか遠い。
「ボクより大事なものってなに?」
納得できない。
なんだかわからないものとの闘いが強いられている。
これが常になってしまったら、交わりなんてこんなものさと馴染んでしまったら……。
老婆心でしょうか(かもしれませんが)、心配なのです。
「ボクを見て」
「ボクの話を聴いて」
自分の事を誰かに、じかに話すってことは愉しいってこと、じかに交わる愉しさを、たくさん、繰り返し体験するって大事なことなんじゃないかしら。
小さな人たちの強い想いが確かなうちに、諦めないうちに。
まずはお母さんやお父さんとね。
できればスマホと出会う前に。
人形劇団ひぽぽたあむ公演
こどもと舞台大博覧会 オリンピック記念センター、カルチャー棟練習室43 7月31日 15時開演 ひとり1000円 申し込み ☎042-369-1246 ひぽぼたあむ |
いぬくんとねこくん。
ふたりのやりとりが楽しい
ひぽぽたあむの人形劇。
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ドキリとしました❗️
返信削除ほんとにその通りと。。。
スマホ、大概にしないとです。